紫草(むらさき)という植物を聞いた事がありますでしょうか?
あまり聞いたこと無いかもしれませんね。当時2001年頃、花を咲かすことが難しく、
絶滅危惧種(環境庁のレッドリスト)に挙げられていました。
2000年のあるとき、日本料理研究家の中川藤義さんと出会いました。
中川さんが、紫草(ムラサキ)の種を持っていて、ここから1つの物語が始まりました。
そんなご縁から、ここ大分県豊後大野市にて紫草を栽培するための土作りに挑戦したんです。
その間の苦労は、想像を遥かに超えたものでした。今思い返すとゾッとします。息子の事故です。
生命の危機を抜けましたが、脳に後遺症が残りました。この世のどん底をゆっくりと歩んでいました。
そんな日々を悶々と過ごしていたある晴天日和、私は紫草(ムラサキ)の栽培地へいつものように足を運びました。
するとそこには、たった一輪だけが、花を咲かせていたのです。
この栽培地の周囲には、約600鉢植えていたのですが、そのたった1輪です。
やさしい色をした花が、こちらに語りかけるように、咲いていたんです。
「やった、咲いたぞ!」心の片隅に曇っていた部分が、ゆっくりと消えて去りました。
「ほんとに、嬉しかったです」
更にもう一つビックリしたことは、なんとその日が「息子、隆治の誕生日」だったことです。
隆治が、奇跡を起こしたと同時に、新たな一歩を踏み出した瞬間でもありました。最高の日でした。
現在は、園芸療法を通じていたって普通に、日々を楽しみ生活しています。仕事も始めました。
この十時の完熟黒土も「息子のおかげかもしれません。」
国内の山地に自生するムラサキ科の多年草。
「万葉の花」と言われるだけあって、深い歴史があります。
奈良時代から江戸時代に主に栽培されていて、
根の部分である紫根(しこん)が染め物の原料や薬物(漢方)に使われていました。
下記に、ムラサキ(紫草)のイメージをご紹介します。
紫草の根の部分を紫根(しこん)と呼びます。
この根が染色部分になります。ムラサキ色は、昔から身分の高い人の着衣の色として扱われていました。
現在でも皇室や宗教界の儀式に、よく紫色が用いられています。
<東大寺の1250年祭りに招かれる>
当時、私は、竹田市の志土知(しどち)地区の方々と一緒に、
紫草(ムラサキ)を栽培したいちメンバーで、専門が土作りでした。
その努力が実り、嬉しい事に、東大寺の1250年祭に招かれたんです。
今でも、この志土知地区では、栽培が継続されています。
この紫根染めの技術は、万葉の時代に百済の国により伝えられて京紫ができ、
鎌倉時代は、岩手で栽培されていました。
徳川時代は、江戸紫が有名となったようです。
格別「紫根染め」は、古代紫といわれ、京都を中心に広まった染色技術になります。
下記の画像は、そのときに奉納した紫根染めの絹です。
そもそもどうして絶滅危惧種が、発生するのでしょうか?
自然環境の変化が生み出したものですが、自然植物が絶滅してしまう現代です。
自然が変化してる、自然環境が昔より弱まっているということではないでしょうか。
その原因は、私たちにあります。
私たちは何でも化学で「早く、安く」物事を解決しようと、どこか生き急いでいるように感じています。
そのため、自然の摂理を見落としています。
私たちがもっと自然と向き合い、自然から学ばなければなりません。
ぜひ、皆さんに自然の土の力を体感して欲しいと願っています。
自然の力は、偉大です。
それを気づかせてくれた、自然環境(植物)と息子に、”いつもありがとう”と伝えたいです。
2016年 3月豊後大野市千歳町にて染織(標高約99m)
心を写す紫草
桜色に生まれ、大地の灰と共に紫へと…
静かに、水に、風に、人びとに沿い、ゆっくりと紫に染まりはじめます
初めまして、群馬の三宅と申します。
3月14日の土曜日、不思議な偶然が重なり、初対面の隆治さんとそのお友達2人と共に
草木染の着物の展覧会までご一緒させていただきました。
その時に紫草の栽培にかけるみなさんの熱い気持ちや、
紫草がとり持つ、不思議な力のお話を伺いました。
私の住む高崎にも染料植物園というところがあるので、こんど行ってみようと思います。
はたして紫草はあるのでしょうか。
紫草が縁を取り持つ力はまだ続いているような気がするので、
その後の進展がありましたらまた、メールさせていただきます。
これからもますますのご発展をお祈りいたします。
三宅さん
初めまして、十時です。
ご縁があるのでしょう。メッセージありがとうございました。
わかっているようで、わかっていないことも多々あります。
そういうものなのかもしれません。ただただ、色々と気づかされ、学びに通じています。
ありがたいことです。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
楽しいことに巡り合えますように。
感謝
十時花園